サンフランシスコの蘭

知人のKさんのお父様が母の霊前に手向けてください、と庭の黄色い美しい花を切り束ねて差し出した。

お父様はかなりのご高齢のはずなのだが、そうは見えず矍鑠とされていてゴルフに出かけたり飲み会に行ったり、何よりも広大な素晴らしい庭の無数の草花を奥様といっしょに日々手入されている。お宅にお邪魔してリビングから庭を眺めるといつも四季の草花が美しく、赤い花が終わると、白い花が、白い花が終わると黄色い花が、と四季をキャンパスのように描くその庭づくりにはいつも小さな感動を覚え、このお宅にお邪魔するようになっていくつも知らなかった花の名前を覚えた。

「この黄色い花は、カリフォルニア・シンビジュームといって蘭の一種なのですが、実は40年前に私がサンフランシスコの空港で試験管の中に入っていた小さな芽がお土産に売られていて、それを何げなく買ってきたものです。軒先に最初の20年はまったく成長せずにほったらかしにしておいたのですが、ある日突然眠りから覚めたように成長しはじめ、それからまた20年、こつこつ手入れをし続け、やがて鉢が割れるほど大きく育って美しい花をつけ、株分けをするほどになったのです。小指ほどの芽が今こんなになるとは、とお父様は玄関先にたくさん並ぶ黄色い花の鉢を見つめて笑った。

 

約40年前、大学生の私もサンフランシスコの空港に降り立った。

パン・アメリカン航空という、当時アメリカ合衆国のフラッグシップを誇る航空会社のジャンボジェットに乗った初めての海外旅行だった。

イーグルスの「ホテル・カリフォリニア」がまだリアルタイムにヒットチャートをにぎわしていた時代、学生時代の夏休み友人たちとアメリカをひと夏、旅行した。

 まずツアーの参加者はサンフランシスコに飛んだ。そして全米の長距離バス路線グレイハウンドの一ヶ月有効のフリーパスを支給され、30日後にロスアンゼルスの指定されたホテルに集合せよ、その間はすべて自分の経費で好きなところで好きなことをしてホテルでも野宿でもして放浪しろという、今考えるとなんとも乱暴で安易な企画の学生ツアーだった。

 到着した日から2泊はサンフランシスコ市内の安ホテルが用意され、オリエンテーションや出発式のようなものがあった。我々はその後、最初の一週間をサンフランシスコ郊外のバークレーにある大学、UCバークレーのドミトリーに宿泊した。大学が夏休みになる時期は、世界から旅行で訪れる学生たちに一泊8ドルの安さでドミトリーを開放するという制度が当時あったのだ。

 この大学のキャンパスは、’67年の映画「卒業」で学生役だったキャンディス・バーゲンが、恋人のダスティ・ホフマンに母と自分に二股をかけられ、学校に戻って傷心を抱いて歩く場面に使われた。サイモン&ガーファンクルの「スカボロフェア」の歌にのせた俯瞰映像のその広いキャンパスで、我々はつかのまの留学生気分を味わった。

その後はソルトレイクシティデンバーエル・パソへと周った。グレイハウンドのパスでメキシコにも周遊できることを知り、みんなと別れ独りでメキシコに入りチワワという、チワワ犬の原産地でもある町から銅の谷という深い渓谷を列車で越えて北上し、ティファナからサンディエゴに上りロスに戻り、そしてみんなと合流し、カリフォリニアのカーメルという美しい海辺の町のコテージで夏の終わりを思い思いに過ごした。

 ひょっとしたら私はその時にこの蘭の試験管を持ったKさんのお父さんとサンフランシスコの空港ですれ違っていたかもしれない、そんな妄想がふと浮かんだ。

学生時代の私の初の長い旅を心配しながら送り出してくれた母。帰ってきた時、旅の話をうれしそうに聞いてくれた母の顔。

そんな母はいつも私の味方だったし、私の一番の理解者だったかもしれない。

40年間、私は母に何をしてあげられたのだろうか?

黄色い蘭を祭壇に飾りながら、そんなことを考えた。

 

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